エゴン・シーレ 「自画像」

自画像を描くということ、自画像を見るということ

自画像というのは、描いてみると不思議なものです。私も、絵のクラスをとるようになって、課題などで自分の顔を描くようになったのですが、最初は、鏡を見ながら、自意識過剰になって、描くことに抵抗感を感じていました。それでも、何回か描いて行くと、そういう気持ちはなくなって、今では、自分の顔描くのも人を描くのも、同じ「練習」っていう感じです。でも、自分のヌードは描いたことないですし、展示会なんかに出す絵に自画像を含める場合、どう感じるのかは、未体験なのでわかりませんが。

時に、自画像を描くという行為は「自分をみつめる作業」と関連付けされていることがありますけれど、これは、人と場合によるのではないかと思います。確かに、自分の顔を描く場合、自分の姿を鏡などに写して、よく見ますけれど、自分を内面を見つめているという感覚は、私の場合ありません。ただ、そういう方向の自画像もあって、ルシアン・フロイドの、自画ヌードや、モンクの自画像は、自己との対面が意識的に行われているように思います。けれど、ゴッホの自画像など見ていると、自己対話的な感じは、薄いようにみえます。アーティストが、絵の対象として、「自分」を、おもしろいと感じるということと、自己の心理を汲み取るみたいなこととは、違う種類のことなので、自画像と「自己対話」を単純に結びつけて考えるのには、違和感が持ちます

けれど、ここで、矛盾するようなこと言うと、人物画のクラスで、一人のモデルを10人以上が描いている中に身を置いてみて、人物画というのは、描く対象が誰であれ、『自己を描いている』のだとも感じます。そういう意味では、自画像であれ、他者を描いた場合であれ、自分自身が、描いている絵に投影される可能性は高いのでしょう。ただ、アーティストがその可能性を、描いている最中に意識しているかは、別問題だと思います。

今日、自画像について、思うことを最初に書いたのは、メトロポリタン美術館の別館ブロイヤーでの、クリムト、シーレ、ピカソのヌード絵画を集めた展示会に行って、エゴン・シーレの自画像を見たからです。

エゴン・シーレ「自画像」/Egon Schiele "Self-Portrait" (watercolor)

この自画像、自分を美化するという要素が全然ないですよね。今は、携帯のカメラで自分の写真をとって、ソーシャルメディアに投稿するのが当たり前になっていますけれど、こういう表情の写真っていうのは、撮っても、普通投稿しないのではないでしょうか。顔色悪いですし、目は血走ってますし、髪の毛も逆立ってます。まともな心理状態には見えません。エゴン・シーレは自画像をたくさん描いたのですが、解説文などを見ていると、”emaciated”という言葉がよく使われています。これは、病気などの理由で「やせ細った」という意味です。病的な感じがするということです。こういう風な、自画像を描いて、自分でそれを見た時、どんな風に感じるのでしょうか。

先ほど、自画像を描くということと「自己対話」の違いなどについて思うことを、書きましたけれど、自画像を見るということのおもしろさは、アーティストとの対話、つまりアーティストが「どんな風に感じたんだろうか」と考えて、その心理状態についての考察みたいなものが、自然に起こってくるからかもしれません。逆に言えば、そういう対話が生まれるような自画像こそ、ある意味、立ち止まって見る時間に値する自画像と言えるかもしれません。まさに、このシーレの自画像は、そういった対話を刺激するタイプのものと言えます。

エゴン・シーレの自画像

この自画像では、あまりわからないかもしれませんが、他の絵を見ると、エゴン・シーレは、絵が非常にうまい画家なのです。彼は、女性のヌードで有名で、例えば、こんな感じの絵を、ささっと描いたりしていたのです。

エゴン・シーレ「ヌード」/Egon Schiele "Standing Nude Facing Right" (charcoal)

Egon Schiele “Standing Nude Facing Right” Charcoal on Paper

線の使いかたが美しいですよね。ほれぼれします。印象的なのは、この女性ヌードでは、使用されている線が曲線でスムーズなのに対して、「自画像」で使われているのは、より直線に近いか、でこぼこで途切れがちな線というところです。こういった「自画像」での線使いを、メトロポリタンの解説では、”agitated”(乱れた、興奮した)と形容しています。

また、この自画像の、他の特徴としては、L字型の腕の形、また手が描かれていないところです。これは、キリストが十字架にかけられた際の姿勢なのではないかと解説ではなっていました。それから、顔や上半身に対して、下半身がさらに細く、性器部分にいたってはほとんど判別が不可能であるというところも、興味深いです。これは、シーレの女性ヌードには、足を開いて露出した作品が多くあることと、対照的です。

後で、シーレの人生について、簡単な紹介をしますけれど、それから推察してして、この絵の線の乱れや色使いを見ていると、私は、無意識あるいは意識的な、自己嫌悪みたいなものの、現れなのかもと思ったりします。

エゴン・シーレという人生

絵が上手く、若くして、先生であったグスタフ・クリムトに認められたシーレですが、その28年間という短い生涯は、スキャンダルに彩られたものでした。子供のころ、父親が梅毒で亡くなり、非常にショックを受けた影響か、彼自身も、女性と女性の体にたいして、執拗な興味を持っていました。それで、画家としてスタジオを持つようになると、とても若い年齢の女の子をモデルとして使用、あらわなヌードを次々と創作します。ポルノと批判されつつも、ある程度、画家として認めれれ始めるのですが。ある日、モデルのレイプと誘拐の罪で逮捕されて、留置所に拘置されてしまいます。裁判の結果、その二つの罪では無罪になったものの、ポルノ製作の罪状で有罪となります。この時、自分はアーティストなので、社会の追及を免れるという特権意識を持っていたシーレは、現実を知って驚いたようです。

実際、シーレが、年若いモデルとどのような関係を持っていたかは、今となってはわかりませんが、女性関係の面で信頼できるタイプではなかったのは、間違いありません。金持ちの姉妹と知り合いになり、プラクティカルな理由から、妹と結婚するものの、姉との関係も継続しようとするなどの、エピソードが伝えられています。

MeTooの時代のシーレ

シーレの自画像は、このブログでは掲載を見送った、露わな女性ヌード作品とともに、展示されていました。会場には、解説として『シーレの作品は、現代の私たちがみるとショッキングであるけれども、これは違った時代と文化の中で描かれた作品であると、理解するべきである』という内容の、掲示がされていました。この解説が、意味するところは、はっきりとは分かりませんが、現代であればシーレのような画家は、ギャラリーなどでの取り扱いが、難しいかもしれないということを、含んでいるのかもしれません。

実際、アメリカやヨーロッパでは、成功した芸術家や文化人が、過去の女性に対するハラスメント、あるいはレイプをしたというかどで、キャリアを失うということが、次々起こっています。シーレも、もし現代であれば、裁判で無罪になったとはいえ、逮捕されたことで、展示会のキャンセルなどは免れなかったと思われます。

私がこの展示会を見に行った日は、最高裁判事として任命されたカバノー氏が、高校時代に女性をレイプしようとしたという訴えにも関わらず、議会で承認された日でありました。シーレは、逮捕される前に、自分がアーティストであるから、社会の特権階級と考えていたという話を、先ほど書きました。カバナー氏も、恵まれた白人エリートとしてのバックグラウンドから、「何をしても許される」という意識に結びついたのではないのか、という指摘がなされています。アーティストの場合、いくら道徳的に退廃していようが、社会のルールを破ろうが、作り出しているものの質についての評価はあるのでしょう。だからと言って、創作上の自由は、道徳や法律の超越の自由を、約束しているわけではないはずです。

アメリカでは、カバナー氏が最高裁判事になることに反対の人が多く、そのニュースでメディアが騒然とする日、メトロポリタンでのヌード展は、最終日間近ということで、かなり混み合っていました。100年前に、社会の規範ぎりぎりのところで、女性ヌードを描き続けたシーレの自画像を見ながら、芸術と特権階級、そして道徳や法律について、ふと考え、なんとも言えない気持ちになりました。

ということで、本日は、エゴン・シーレ「自画像」/Egon Schiele “Self-Portrait” (1911)について、書いてみました。

スポンサーリンク
rectangular large
rectangular large

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
rectangular large